マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及
改訂版(注17「ヘブライ語風の言い回し」について見解を改め、その関係で注21も改訂しました。2004年7月2日記)
折原 浩
2004年6月26日、2004年7月2日改定版
「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」でも、著者ヴェーバーは、読者が慣れ親しみ、日常会話で頻繁に使っている語Berufを「トポス」[1](共通の場)として、議論を開始している。
かれは、前節「資本主義の『精神』」でも、F.キュルンベルガーの小説『アメリカにうんざりした男』から、ドイツ人読者に類型的(典型的)な「アメリカ嫌い」を刺激する一節を引き合いに出し、これを「トポス」として巧みに利用していた。すなわち、方法論上の断り書きのあと、同書から「時は金なり」「信用は金なり」の訓戒を延々と孫引きし、その主がじつは「道徳家」ベンジャミン・フランクリンであると明かす。ところが、一見「拝金主義」の好例とも読める訓戒は、じつはたんなる「処世術」「金儲け心得」ではない。さりとてそれは、南ドイツの豪商で、「時は金なり」を地で行くと同時に「篤志家」「道徳家」の一面もそなえていたヤーコプ・フッガーの類例とは異なり、「死後の懲罰を恐れる、慈善による埋め合わせ(の勧め)」でもない。むしろそれは、なんと金儲け=貨幣増殖そのものを、「職業Berufにおける巧みさ」を表示するかぎりで「善」として肯定するばかりか、「自己目的」として義務づけもする倫理的説教なのである。ただ、(ドイツ人ならざる日本人読者にも、当の説教やフランクリンの『自伝』を読み返してみれば[2]看取されるとおり)「勤勉」「節約」「正直」「規律」などの徳目を、純然たる「固有価値」として遵守するのではなく、むしろ「信用」を介して「貨幣増殖」に連なる効果に力点を置いて評価し(そこで「価値合理性」と「目的合理性」とがせめぎ合い)、その意味で「功利主義」への「転移」(キルケゴール)傾向を孕んだ、独特の「エートス」である、といえよう。
ヴェーバーは、こうして「歴史的個性体」として概念構成された「資本主義の精神」(以下「精神」)を、そのあと「伝統主義」と対比し、「精神」の歴史的「文化意義」を明らかにする。そのさい、「伝統主義」についても、当時の読者にはよく知られていた農業部門での経験、すなわち、農場主(農業資本家)が収穫期に出来高賃金制を採用し、賃率を引き上げて労働強化を企てても、農業労働者には「仕来りとしてきた生活水準を単純に維持し、労働強化をともなう水準向上は望まず、どんな賃金刺激にも反応しない」「習慣の壁」(つまりは「伝統主義」)が顕著で、農場主の企図もこれに跳ね返されて挫折する、という知見を、これまた「暫定的例示」の「トポス」として活用している。また、そうした「伝統主義」を基調とする企業経営の風土に「精神」が割り込んでくるとどうなるか、の素描にも、こんどはフランクリンならざるヴェーバー自身の父方の叔父カール・ダフィト・ヴェーバーを(匿名で)登場させ、そのとき生産/販売/対同業者関係に持ち込まれる革新/刷新の諸相を活写するのである。
「精神」ないしその核心にある「近代市民的職業エートス」は、そうした「伝統主義」のただなかに、一連の「宗教改革」の系譜を引いて「生まれ」、「伝統主義」と闘いながら「成長をとげ」、「産業的中産者」やがて企業主/労働者双方に波及した。「経営Betrieb」に「適したadäquat」エートスとして、初期資本主義の近代資本主義への脱皮/発展を、経営/労働主体の内面から支え、促進した。なるほど、初期資本主義が、そのように「近代市民的職業エートス」や形成途上の「近代国家」に支えられ、幼弱期の困難を乗り切って、近代資本主義システムとして確立し、「固有法則的eigengesetzlich」な発展の軌道に乗り、発展の諸条件をこんどは自前で調達していくようになると、システム外生的な(宗教領域からのサポートによる)「精神」の育成は不要になり、後続世代が当のシステムへの「適応」の過程で「いやおうなく」身につけざるをえない、システム内生的所産に転化し、そのように「淘汰Auslese」のメカニズムによって再生産されるようになる。しかし、それ以前の初期段階では、経済システムの土台には還元されない――その「指標」でも「函数」でもない――独自の歴史的「創造」物として、当該システムの展開に先行し、「構成的konstitutivな意義」を帯びる関係にあった。そこで問題は、「かつて資本主義文化[!]のもっとも特徴的な構成要素をなし、いまなおそうである『職業』思想»Berufs«-Gedankeと、(……純粋に幸福主義的な利己心の立場からはきわめて非合理的な)職業労働への献身とを生み出した、あの『合理的な』思考と生活の具体的形態は、いかなる精神的系譜に連なるのか」、とりわけ「当の『職業』概念»Berufs«-Begriff のうちに潜む、そうした非合理的な要素はいったいどこからくるのか」(GAzRS, I,
S. 62, 大塚訳、94ぺージ、梶山訳/安藤編、132-3ぺージ、[ ]は引用者)というふうに再設定される。そして、この問題が、つぎの「ルターの職業観」節(以降)に引き渡されるのである。もとよりこのばあい「(幸福主義的な利己心の立場からは)きわめて非合理的な」とは、当の立場からみると限度を越え、「利己的な幸福」を犠牲にしても職業労働には献身する(そういう「価値硬直化」に意識的に固執するかぎりで、「利己的な幸福」という特定の人生「目的」に照らせば「目的非合理的な」)「価値合理性」を意味している。
「ルターの職業観」節の劈頭、ヴェーバーは、世俗的な職業(社会的分業体系の一環をなす特定の業務/労働領域で、同時に社会的機能/地位)を表すドイツ語のBeruf(あるいは英語のcalling)したがって「職業」概念»Berufs«-Begriffには、「すでに、ある宗教的な、神から与えられた使命Aufgabeという観念」(それゆえ「利己的な幸福」の限度を越えても献身すべき課題という「目的非合理的」「価値合理的」な意味合い)が含まれていて、この語に力点を置いて発音すればするほど、それだけその意味合いが強く響き出るという事態に注目し、これを手がかりとして問題を解き明かしていく。まずこの、現在のBerufのように、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ言葉(以下Beruf相当語)の時間的/空間的分布を広く見渡してみると、それが近世以降、しかもプロテスタントの優勢な民族の言語にかぎって見いだされることが分かる(ここに注1)。しかも当の語義は、そうした民族に固有の「種族的ethnisch」[3]な特性の表れではなく、プロテスタントが(まさにプロテスタントとして)「顕示的信仰 fides explicita」[4]を旨とする根本的立場から、平信徒大衆もみずから聖書を手にとり、自分たちの日用語で[5]読めるように、こぞって聖書を母国語に翻訳した16世紀の画期的事業から――したがって聖書の原文ではなく、翻訳者たちの精神から――、誕生しているように見える(ここに注2)。
そのさい「翻訳者たち」といっても、端緒はひとまず[6]マルティン・ルターに求めるのが妥当であろう。かれが、独自の宗教改革思想をもって聖書の独訳を進める途上、1533年に旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『シラ』)を訳出したとき、その一カ所(11: 20, 21)で、語Beruf(当時の綴りはberuff)を初めてzuerst「今日われわれが用いているのとまったく同じ[聖俗二義を併せ持つ『使命としての職業』という]意味で用いている」(GAzRS, I, S. 65,
大塚訳、95-6ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)と思われるからである(ここに注3)。
こうした語義をもつ語BerufないしBeruf相当語は、「その後すみやかにdann sehr bald、あらゆるプロテスタント諸民族の通俗語Profansprache[7]のなかで、現在の意味をもつようになり、現在にいたっている[現在完了形]。だが、それ以前には、当の諸民族のいずれの世俗文献にも、そうした語義の萌芽はまったく認められず、宗教文献Predigtliteratur [8]でも、知られるかぎり、ドイツ神秘家のひとり以外には、そうした萌芽は認められない。この神秘家[タウラー]がルターにおよぼした影響は、周知のことである」(GAzRS, I, S.
65-8, 大塚訳、96ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)。
このように著者は、節冒頭の第1段落で、「使命としての職業」という意味のBeruf /Beruf相当語の創始/出発点を、ルターの聖書翻訳に絞り込み、そこにいたる歴史的経緯を、この第1段落に付された三つの注に送り込んで論じている。もとよりこの節全体は、もっぱら語義論に当てられているのではない。第2段落冒頭に「語義と同様、思想Gedankeも新しく、宗教改革の所産である」との文言があり、これを皮切りに、以下第12段落まで、節の大半では、語Berufに表明されたルターの職業思想が、かれの宗教改革思想の一環として取り扱われ、その「文化意義」と(歴史的)限界が論定される。劈頭で語Berufを採り上げたのは、このばあいにもそれが、読者とくにドイツ人読者との「トポス」として、議論を切り出すのに格好だからである。ということは、裏返していえば、それが「トポス」の域を出ないということでもある。
議論の大筋は、語義論から思想論に進み、ルターの職業思想/宗教改革思想の@画期的意義とA限界とを見きわめ、B当の限界をこえて「精神」の派生に連なる契機(「合理的禁欲」ないし「禁欲的合理主義」)につき、外堀を埋め、焦点を絞り、本来の研究テーマとして、本論(第二章)に送り込んでいる[9]。@「画期的意義」とは、ルターが、中世カトリックにおける「平信徒大衆」と「(宗教的)達人」との二重構造(一方には「命令」を守るだけで、一身を救うには「功徳」の足りない平信徒大衆、他方には「福音的勧告」にもしたがい、その「剰余功徳」による「剰余恩恵」を教会の「宝庫(救済財庫)」に蓄え、たとえば「贖宥状」の「効力」を「裏付ける」など、ローマ・カトリック教会の「教権制」的支配一般を支える修道士、という教会身分構造)を否認し、修道院行きの救済「軌道」を世俗内に向けて「転轍」し、それまでは世俗外に(世俗内的観点から見れば)逃避/消散していた宗教的能動分子の「観念的利害関心」と救済追求の実践的活力を、世俗内の身分/職業にあって発揮するように広く解放した点、に求められる。そのA「限界」とは、そうした「世俗内救済追求」が、「世俗内禁欲」にはいたらず、「世俗内伝統主義」に傾いた点、にある。とすると、B「当の限界をこえる契機」とは、ルターによって「転轍」された「世俗内救済追求」の「軌道」を引き継いだうえで、「世俗内伝統主義」から「世俗内禁欲」に再「転轍」するようなプロテスタント諸宗派(カルヴィニズムをもっとも首尾一貫した類型とする「禁欲的プロテスタンティズム」)の宗教思想/職業思想に求められることになろう。
「倫理」論文における著者ヴェーバーの価値関係的パースペクティーフとこれに即した問題設定(主−副問題群設定)からすれば、語Berufに表明されたルターの職業概念は、あくまで(「倫理」論文全体の)主題ではなく、主題(「合理的禁欲」の歴史的生成)を論ずるための(重要ではあるが)与件のひとつ、しかも乗り越えられるべき与件のひとつにすぎない[10]。ルターのBeruf語義論/語義創造論のそうした位置価にふさわしく、その叙述は、本論ではなく「問題提起」章の一節で、「トポス」としての意義に即して節の冒頭に置かれてはいるが、本文ではたった一段の紙幅が割り振られるだけで、簡潔に切り上げられ、上記の大筋に沿う議論に引き継がれている。ただ、その特性(世俗内救済と伝統主義との結合)を把握し、最小限の因果帰属をおこなうことは、まさに乗り越えられるべき特徴とその成立経緯を確認しておくためにも必要なことなので、(そのうえ、おそらくは、ことルターにかんするかぎりそれぞれ一家言をもつドイツ人読者の、「トポス」にたいする関心の横溢と「ほとぼり」を顧慮して)本文ではなく、注に送り込まれ、ただ注記としては破格に詳細に論じられたのであろう。かりにその長大な三注が本文に組み込まれたとしたら、「倫理」論文は、著しく平衡を失し、弛緩した随想風散文に堕したにちがいない。そういう注記のなかからなんらかの論点を取り出して問題とするばあいには、まず当の注自体の位置価を、上記のようにあらかじめ押さえておくことが肝要であろう。
では、その三注で、著者はなにをどう論じているのか。
注1では、古代ヘブライ語を例外として、ギリシャ語、ラテン語、ロマン語系諸語には、Beruf相当語が見いだされない、という事実が指摘される。
古代ヘブライ語にかんする叙述は、改訂時の加筆である。その語彙のなかには、melā’khā, hōq, dhebhar-yômのように、本源的には「指定された特別の使命」という意味を含み、とくに祭司職に適用されたが、やがてそうした意味合いが薄れ、あらゆる職業労働に用いられるようになり、その点でドイツ語のBerufに似ている語が含まれていた。ただ『シラ』については、ヘブライ語の原本がルターの時代にはまだ発見されていなかったので、ルターはギリシャ語訳(『七十人訳 Septuaginta』)から重訳している。したがって、ルターの訳語Berufは、ヘブライ語聖書原文の精神には由来していない。
ロマン語系については、スペイン語のvocacionやイタリア語のvocazioneが、新約聖書のklēsis(「福音による永遠の救いへの召し」を意味し、ヒエロニムス訳『公認ラテン語聖書vulgata』ではvocatio)に訳語として当てられるばあいにのみ、「なにものかにたいする内面的な使命」というニュアンスを帯びる。しかしそれらは、今日のBerufとは異なって、世俗的な職業の意味には用いられない。他方、世俗的職業を表す言葉は、ministeriumやofficiumを語源として当初の倫理的色彩が薄れた語にせよ、arsやprofessioやimplicare(impiego)を語源として当初から倫理的含意はなかった語にせよ、「神から与えられた使命」という宗教的語調は帯びていない。要するに聖俗二義を併せ持つBeruf相当語は存在しない。
ルターがBerufと訳した『シラ』11: 20, 21も、スペイン語訳ではobraと(vulgataに則って)lugarか(プロテスタントの訳でも)post、カルヴィニストの仏訳でもofficeとlabeur、となっており、Beruf相当語が当てられてはいない。というのも、「ルターは、まだアカデミックに合理化されていなかった当時の官用ドイツ語に、言語創造的な影響を与えることができたけれども、ロマン語系諸国のプロテスタントは、信徒数が少なかったため、そうした影響を[それぞれの母国語に]与えることはできなかったし、あえて与えようともしなかったのである」(GAzRS, I, S. 65,
大塚訳、100ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)。つまり、著者ヴェーバーは、宗教改革者・翻訳者による新しい語義の創造が、どの程度当該言語の語彙のなかに受け入れられ、定着していくのか、という問題点について、一方では、翻訳者の属する宗派が「言語ゲマインシャフトSprachgemeinschaft」[11]のなかでいかなる地位を占めているか(「多数派」か「少数派」か)、他方では、影響を被る言語のほうが、すでにどの程度合理化(言語としてステロ化)されているか、といった多様な歴史的/社会的諸条件を、当然のことながら正当に視野に収めて立論している[12]。ヴェーバーは、まさにそうした条件の違いを考え、英語圏・イギリスの類例は、ロマン語系諸国とは別のコンテクスト(注3の末尾)に移して取り上げることにしたのであろう。
注2では、「アウグスブルク信仰告白」(1530)が取り上げられ、そこでは「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ職業概念がまだ十分には展開されていないと要約される論述がなされ、いくつかの条項が例示として引用されている。だが、この注2にかぎっては、注が付された本文の――そうした職業概念/Berufの語義が、聖書原文ではなく、翻訳者たちの精神に由来するという――趣旨と、この注記内容との関係が、いまひとつはっきりしない。
この点を筆者は、つぎのように解釈する。すなわち、当の「信仰告白」が発表されたアウグスブルク国会には、法律保護停止刑を受けているルター自身は出席できず、かれに代わってメランヒトンらが出席し、ザクセン選帝侯領内のコーブルク城に滞在するルターと、書簡で頻繁に連絡を取っていた。したがってルター自身が起草者というわけではないが、この「信仰告白」そのものは、プロテスタントの教理/信条が公式の場で最初に宣言されたという意味では、きわめて重要である。その16条には「世俗の政府、警察、婚姻などのいっさいを、神の秩序Gottes Ordnungとして尊重し、各人がそうしたもろもろの身分Ständeにあって、キリストの愛と善行とを、その»Beruf« に応じて証しすべし」とある。なるほど、この»Beruf«は、ラテン語版ではたんに「そうしたもろもろの身分Stände[神の秩序としての政府、警察、婚姻など]にあって、善行をなせ in talibus ordinationibus exercere caritatem」としか記されていない事実からも読み取れるとおり、「少なくとも第一義的には『コリントT』7: 20の意味における客観的秩序objektive Ordnung im Sinn der StelleTKor. 7: 20」(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、101ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)の謂いで、まだ「使命としての世俗的職業/職業労働」という語義にまではいたっていない。しかし、語RufではなくBerufが、ともかくも「職業」に近い、「職業」をも包摂しうる、「神の秩序ないし神によって指定された客観的地位」の意味で用いられている。ということはつまり、メランヒトンらを含む複数の翻訳者がかかわって、「使命としての職業」という概念が定式化され、訳語Berufが選定される一歩手前まで近づいているが、最後の一歩が踏み出されずにいるということであろう。この事実は、(ヴェーバーが、後述のとおりつぎの注3でも、注2のこの箇所の参照を指示しながら述べているとおり)ルターが三年後の『シラ』訳のさい、すでに熟している「使命としての職業」概念を表示する語としてBeruf をergon とponosに当てたとき――ということは当然、類語RufとBerufとのどちらを採るかという訳語選択に直面し、おそらくは躊躇なくBeruf を採用したとき――、その宗教運動上(したがって歴史上)の根拠をなしたにちがいない。というのも、メランヒトン、ルターらの宗教改革は、スコラ的な語義論争、ましてや語形論争ではなく、強大なカトリック勢力を敵として民衆や諸侯の心を捉えようとする熾烈で尖鋭な社会的闘争であった。とすれば、正式に宣言された「アウグスブルク信仰告白」でいったん公に登録され、語義としても一歩手前まできていたBeruf を、三年後には棄てて、(前綴Be-が欠けるだけ弱勢の)Rufに差し換える必要も理由もなかったであろう。
さて、「使命としての職業」という語義のBerufは、翻訳者のひとりルターが、1533年に『シラ』11: 20, 21のergon とponosをBerufと訳出したときをもって嚆矢とする。このヴェーバーの命題は、この注2が付された直後の本文で提唱され、さらにそこに付された注3で詳細に論証される。とすると、この注2は、それに先立ち、一方では1530年の「アウグスブルク信仰告白」における職業概念の未展開を、対照的な背景事実として示し、翻訳者のひとりルターにおける三年後の語義創造の意義を浮き彫りにすると同時に、他方では、ルターがなにゆえにその創造的一歩を踏み出すことができたのか、とくになにゆえにRufでなくBerufを選定したのか、を説明する背景事実として、あらかじめ直前に提示したものと位置づけられよう。そう解釈すれば、一見本文との対応を欠く注2の記載内容は、第一段落の本文ならびに三注を貫くコンテクストに整合的に収まるであろう。
注3は、[1]ルター以前の用語法、[2]ルターにおけるBerufの用法二種、[3]ルターにおける『シラ』11: 20, 21の用語法、[4]ルターにおける『コリントT』7: 17-31の用語法、[5]ルターにおける『シラ』11: 20, 21へのBerufの適用経緯、[6]ルター以後16世紀おけるBeruf相当語の波及、とも題されるべき六つの段落から構成されている。以下、ひとつひとつについて詳細に検討してみよう。
[1] ルター以前の用語法
ルター以前には、Berufも、以後にBeruf相当語として用いられた各国語(オランダ語のberoep,calling,デンマーク語のkald,スウェーデン語kallelseなど)も、世俗的な職業には適用されていない。発音はBerufと同じ語(beruffなど)は、今日のドイツ語Rufと同じ意味(招聘、召喚)をそなえ、特例としては「聖職禄への招聘Berufung,
Vokation」にかぎって用いられ、ルターもときにこの意味で使っている。とすると、この特例が、「聖職禄への」という適用制限を解除され、聖ならざる職禄への招聘にも転用されれば、そこに職業一般への招聘、したがって「(招聘されるに値する)使命としての職業」という語義/概念が誕生する、とも考えられよう。なるほど、「発音はBerufと同じ語」がこの特例を含んでいたという事実が、後に「使命としての職業」という概念が形成されて、それを表示する語が選定されるさい、他の語ではなく、まさにこの「発音はBerufと同じ語」が採用される契機として、それに有利にはたらいた、ということはあるかもしれない。しかし、そうした適用解除や転用がじっさいにおこなわれ、受け入れられて普及するには、転用によって新たに適用される職業一般が、すでに聖職と同等の意義を帯び、抵抗なく適用される対象として一般に認められていなければならない。聖職が降格し、世俗的職業が昇格して、等価/同等と見なされることが、転用が円滑におこなわれる条件である。ところで、そうした条件こそ、ルターの宗教改革によってもたらされた。すなわちルターは、先にも述べたとおり(「命令」のみを守る「世俗内道徳」を貶価し、「福音的勧告」にもしたがう「修道院道徳」を賞揚する)中世カトリックの「世界像」を否認し、世俗的な身分や職業における「世俗内道徳」の遵守に、聖職の履行に優るとも劣らない宗教倫理的意義を与え、この思想を、聖書の翻訳/訳語選択をとおして言語改革にまで貫徹したのである。
[2] ルターにおけるBerufの用法二種
ところで、そのルターは、さしあたりまったく異なるふたつの概念を、語Beruf によって翻訳した。一方は、パウロのklēsisで、「神によって永遠の救いに召されることBerufung zum ewigen Heil
durch Gott」の意味で、世俗的職業とはいささかも関係がない。用例としては、下記の箇所が挙げられる。
第一種
1522年 1526年
1546年
『コリントの信徒への手紙T』1: 26
ruff
beruff Beruff
『エフェソの信徒への手紙』1: 18, 4:
1, 4: 4 beruff
beruff Beruff
『テサロニケの信徒への手紙U』1: 11
beruff beruff Beruff
『ヘブライ人への手紙』3: 1
beruff beruff Beruff
『ペテロの手紙』1: 10
beruff beruff Beruff
(Dr. Martin Luthers Werke, Kritische Gesamtausgabe, Die
Deutsche Bibel, Bd. 7, 1931,
第二種
いまひとつの用法こそ、『シラ』11: 20, 21のergon とponosにBerufを当てたばあいで、ドイツ語の Berufが、今日と同じく世俗的職業の意味に用いられた最初の事例である。(WADB, Bd.
12, 1961, S. 178-9)
ただし、同じ『シラ』11: 20でも、前半stēthi en diathēkē sou(汝の定めにとどまれ)のdiathēkēは、同じく『シラ』14: 16, 43: 10の用例[13]からも窺えるとおり、ヘブライ語のhōqに一致し、ドイツ語のBerufに似た「運命、指定された労働」という意味をそなえているにもかかわらず、ルターは、bleibe jnn Gotteswort(神の言葉にとどまれ)と訳している。他方、同じく『シラ』11: 21のponosは、work, esp. hard work,
toil, labor という意味であるにもかかわらず、ルターは、こちらにはBerufを当てている。この至近の対照例に明らかなとおり、ルターは、(宗教的)使命という意味を含むか、含みやすい、したがってBeruf と訳しやすい原語(このばあいdiathēkē)には、じっさいにはBerufを当てず、他方、宗教的意味を含まず、含むとしても「神による懲罰としての労苦」という否定的意味合い帯び、Beruf とは訳しにくい原語(このばあいponos)にはかえってBerufを当てている。すなわち、ルターの翻訳は、原文に忠実な機械的/画一的な直訳ではなく、むしろ、「翻訳者の精神」すなわち宗教改革者としてのみずからの思想を表明する意訳なのである。
ルター以前には、『シラ』11: 20, 21のergonとponosは、Werkと訳され、説教でも、今日ならBeruf というところで、Arbeitという言葉が使われていた。したがって、ひとまず、この第二種は、宗教改革者ルターが、翻訳者として創始した用法で、それが、ルター以降の翻訳者たちによっても(拒まれず、廃れず)受け入れられ、普及して、今日にいたっている、といえよう。
ところが、純宗教的な「召し、召命」を表すギリシャ語klēsis の訳語には、ルターの第一種用法Beruf以外にも、Berufの類語Rufがある。たとえば、ハイデルベルク大学図書館所蔵の古印刷聖書では、第一種用法の箇所が»ruffunge«と訳されているそうであるし(GAzRS, I, S. 66,
大塚訳、102ぺージ、梶山訳/安藤編、140ぺージ)、ルターの論敵でカトリック神学者のエックによるインゴルシュタット訳では、1537年にも、『コリントT』7: 20のklēsisがRufと訳されているという(GAzRS, I, S. 68,
大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。とすると、そのRufが、かりにルター以前に、「神による召し、召命」の原義を保持しながら、どこかで(ちょうどルターが『シラ』11: 20, 21でおこなったように)世俗的な職業に適用されていたとしたら、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語(Beruf ではなく同義の)Rufが、ルター以前に創始されていたことになり、ことによるとルターは、そのRuf の語義をそのまま継承して、ただ語形をBerufに替えただけかもしれない。かりにそうだとすると、上述のルター創始説は、少なくとも半ばは覆えされ、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Rufの創始点が重要で、そこにこそ遡行する必要がある、ということになろう。
そこで、著者ヴェーバーは、ルター以前のRufの用法に目を向ける。すると、本文でも言及されていたドイツ神秘家(タウラー)が、ルターの第一種用法にも数えられていた『エフェソ』四章にかんする釈義で、klēsisをRufと訳したうえ、「施肥に赴く農民が実直に自分のRufに励むならば、自分のRufをなおざりにする聖職者に優る」と説き、農民の施肥という世俗的職業労働に適用する、まぎれもない事例が、確かに目に止まる。ただし、この用例は、あまりにも時期尚早で、機が熟していなかったためか、鮮やかながら単発打/孤立例にとどまり、その後用法として確立し、説教文献の範囲をこえて「世俗語にまで普及していくことがなかったし、現に普及してもいないin die Profansprache nicht eingedrungen ist[現在完了]」(GAzRS, I, S. 66,
大塚訳、103ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)。現代ドイツ語の辞書を引いても、Rufの見出しのもとに「職業」の語義は見当たらない。ルターが、この点にかけてはいうなれば(ドイツでも)「二番打者」として、タウラーと同じように、ただBerufのほうを世俗的職業に適用し、その用例が、(ルターらの宗教改革運動の成果として)「アウグスブルク信仰告白」(1530)が正式に宣布されるにいたっている歴史的情勢に恵まれ、こちらは用法として確立し、広く受け入れられ、普及して現在にいたっている。そのかたわらで、タウラーのRufのほうは、顧みられず、廃れていく運命をたどったのである。
また、ルターによる「継承」問題についていえば、なるほど『キリスト者の自由』などには、タウラーの説教と響き合うところがあり、「ルターの用語法Luthers Sprachgebrauchが、初めのうちanfangs (s. Werke,
Erl. Ausg. 51, S. 51)»Ruf«と»Beruf«との間で揺れている」(a. a. O.)ところから見ても、その(ルターにおける稀少例としての)»Ruf« のほうを、タウラーの直接の影響に帰することができそうにも思われる。しかし、ヴェーバーによれば、それはけっして確かではない。というのも、「ルターは当初
zunächst、この語[»Ruf«]を、タウラーの上記箇所と同じような、純然たる世俗的[職業の]意味に用いてはいない」(GAzRS, I, S. 67,
大塚訳、104ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)からである。すなわちルターは、当初(著者が挙示している箇所としては、1522年の『コリントT』7: 20と、翌1523年のその釈義で)klēsisの訳語としてRufを用いているが、その語義はせいぜい「神の秩序として、神によって召し出された世俗的身分」どまりで、タウラーにおける農民の施肥労働のような、純然たる世俗的職業労働までを意味してはいなかった。つまり、Rufの用法にかけて、タウラーとルターとは「直接には一致せず」、後者の用法を前者の用法の「直接の影響」に帰することはできない。ただ、管見では、「固有の意味におけるルター研究」ないし「タウラー−ルター関係研究」の一テーマとして、「間接の影響」を問う余地は残されているといえよう。
[3]ルターにおける『シラ』11: 20, 21の用語法
しかし、ここ「倫理」論文の「価値関係的パースペクティーフ」では、「使命としての職業」という聖俗二義をかねそなえ、かつ今日に生きている語の創造が問題なのであるから、たとえ「二番打者」であれ、ルターによる語Berufの創始点、すなわち『シラ』11: 20, 21に立ち帰って、当の創造の経緯を問わなければならない。
この『シラ』11: 20, 21も、『七十人訳』の原文では、神への信頼一般が知恵として説かれているだけで、世俗的職業労働それ自体に、なにか特別の宗教的かつ肯定的な評価が与えられているわけではない。原文のponosには、むしろ逆に「神による懲罰としての苦役/労苦」といった否定的評価が表現されている。ベン・シラがいわんとするのは、『詩篇』37: 3の勧告と同様、「神なき者の営利追求と繁栄に惑わされず、神を信頼して誠実に糧をえよ」という趣旨であろう[14]。ただ11: 20冒頭のdiathēkēだけは、klēsisにやや近い意味をもっているが、前述のとおり、ルターはここにはBerufを当てず、Wortと訳している。
そういうわけで、ルターの聖書翻訳において語Berufが当てられている対象は、片や「神による召し(ないし召された状態)」、片や「(宗教的評価をともなわない)世俗的職業労働」というふうに、一見まったく異質で、この二種の用法に連絡をつけることは、とうてい不可能のようにも思われる。ところが、ここで、読者とともに「『コリントT』のある特定箇所とその翻訳die Stelle im ersten
Korintherbrief und ihre Uebersetzung」を取り出して読んでみることにしよう。すると、この箇所が、一見相いれない二種の用法を「架橋しdie Brücke schlägt[現在形]」(GAzRS, I, S. 67,
大塚訳、104ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)、双方の関連を解き明かす鍵を提供してくれるようにみえる。
[4]ルターにおける『コリントT』7章の用語法
そこで『コリントT』の該当箇所、すなわち7: 17-31のあたりを、ルター訳聖書のうちでも読者が入手しやすい「近年の普及諸版die üblichen modernen Ausgaben」を手にとって読んでみよう。著者ヴェーバーは、第一章第二節冒頭では、フランクリンの「貨幣増殖」説教を、キュルンベルガー『アメリカにうんざりした男』からわざわざ孫引きしていたが、ここでもわざと、ルター自身の「原典」ではなく[15]、ルター以降の翻訳者たちによって改訂が施されている「普及版」を、それと知り、まさにそれゆえに、読者との「トポス」に採用し、17-24を逐語的に引用し、29, 31節にも論及し、そこから議論を開始するのである。
17節は「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたし[パウロ]が命じていることです」(新共同訳から引用)とあり、ヴェーバーのいう「架橋句」の導入部に当たる。このあと、18/19節では、割礼者/無割礼者の別(つまりethnic
status)、21-23節[16]では、奴隷/自由人の別(social status)、25節以下では配偶関係の別(marital status)が取り上げられ、これら現世における客観的「状態/地位/身分statūs, Stände」のいかんには、いささかもこだわらず、「終末論的無関心」の態度で臨むべきことが説かれている。そして、三具体例の間に挟まった20節と24節で、そうした客観的「状態/地位/身分」が、「神に召された状態」と捉えられ、「各人は召されたときと同じ、その状態/地位/身分にとどまれ」との一般命題に集約される。平信徒/聖職者の別(ecclesiastical
status)を問わない、という「万人司祭主義」の原則へは、ここからあと一歩というところであろう。
問題は7: 20であるが、ヴェーバーはここで、普及版ルター聖書の訳文Ein jeglicher bleibe in dem Beruf, in dem er berufen
istのあとに、ギリシャ語原文en tē klēsei
hē eklēthēを引用し[17]、普及版ではklēsisがRufではなくBerufと訳出されていることを明示している。また、普及版からのこの引用を締めくくる段落末尾では、「1523年にはルターはまだ、この章の釈義で、古いドイツ語訳に倣い、klēsisを »Ruf«
と訳し(Erl. Ausgabe, Bd. 51, S. 51)、当時はdamals »Stand« と解釈していた[過去完了]」(GAzRS, I,
S. 67, 大塚訳、105ぺージ、梶山訳/安藤編、142-3ぺージ)と明記し、再度『エアランゲン版著作集』51巻、51ぺージの参照を指示している。したがって、著者ヴェーバーは、ルター自身はまだ『コリントT』7: 20の本文でも釈義でも[18]»Ruf«と訳していた箇所が、普及版ではBerufと訳出され、その間に改訂されている事実を、完全に知悉したうえ、わざわざ読者に明示しているのである。まさにそうすることにより、ヴェーバーは、ルター自身はまだ»Ruf«と訳していた『コリントT』7: 20のklēsisが、ルター以降の翻訳者たちによっては、いうなればルター自身を越えてBeruf と訳出されてもおかしくはないような「客観的意味」のコンテクストに内属しているという事実、そのコンテクストをこそ、読者に示そうとしたのであろう。
[5]ルターにおける『シラ』11: 20, 21へのBerufの適用経緯
確かにこの『コリントT』7: 20では――ここにかぎっては――、原文のklēsisが、ラテン語のstatus、ドイツ語のStandに近い意味で用いられている。しかしまだ、世俗的職業は意味せず、ブレンタノの主張に反して、今日のBerufと同義ではない。二三のギリシャ語文献に当たってみても、klēsis はいずれも、今日のドイツ語におけるBerufの意味で用いられてはいない。
それでは、klēsisが、今日のドイツ語におけるBerufの意味で用いられたのは、いつ、どこでか。それこそ、1533年、ルターが旧約外典の『シラ』を独訳したさい、11: 20, 21のもっぱら世俗的職業ないし職業労働を表すergonとponosに、それまではもっぱら宗教的意味のklēsisにだけ用いてきたBerufを当てたとき、まさにそこにおいて、にほかならない。
ヴェーバーによれば、ルターは、前段[4]で確認したとおり、例外的に世俗的身分も意味する『コリントT』7: 20の箇所では、かえってドイツにおける翻訳の伝統にしたがってRufを用いていたが、「各自が[使徒の宣布する福音を介して神の召しを受けたときと同一の]現在の状態にとどまれ、との終末観にもとづく[パウロ/ペテロの]勧告」、すなわち第一種用法の諸箇所では、一貫して「klēsisをBerufと訳していた[過去完了形]」。「そのルターが、その後später、旧約外典を翻訳した[過去形]ときには、『各自その生業Hantierungにとどまることを可とする』との、『シラ』の伝統主義的な反貨幣増殖主義[反貨殖主義]にもとづく勧告についても、両勧告[上記終末論的勧告ならびにこの伝統主義的反貨殖主義の勧告]が、[各自の置かれている客観的状態を神の召しとして受け入れ、さればこそそこに堅く立てemmenō=abide
byと説く点にかけて]すでにschon実質上類似しているという理由からも」、『シラ』11: 20のergonのみか、11: 21の「ponosに[まで、躊躇なく]語Berufを当てることができたし、その訳語選択が結果として受け入れられ、普及して、現在にいたっている[現在完了形]」(GAzRS, I,
S. 68, 大塚訳、106ぺージ、梶山訳/安藤編、143ぺージ)。
この箇所に、ヴェーバーは改訂のさい、「これこそ、決定的かつ特徴的なことである。前述のとおり、『コリントT』7: 17[以下]の箇所では、klēsisはおよそ『職業』すなわち、[身分とは異なって]特定された仕事の領域abgrenztes Gebiet von Leistungenという意味では用いられていない」と加筆している。まことに、そのとおりである。原著者ヴェーバーにとっては、ルターにおいて、もともと変則的ないし例外的な『コリントT』7: 20のRufが、Berufに改訂されてergonと ponosにも適用される、ということが問題なのではない。なるほど、『コリントT』7: 20が内属する7: 17-31のコンテクストで、「『神の召し』が世俗の『客観的秩序』にもおよび、当の客観的秩序が『身分』として具体的に把握される」と解され、この思想をいわば突破口に、世俗的「身分」(という現世秩序の上位のSubdivision)のみか、さらに個別的な「職業」(という現世秩序の下位のSubdivision)への編入までが、「神の召し」したがって「使命としての職業」として把握されるようになるのであるから、『コリントT』7: 17-31は、まさにヴェーバーのいう「架橋句」として、そのかぎりできわめて重要である。しかし、決定的なのは、その「架橋句」に表明された思想を媒介として、それまでは一貫して、もっぱら「神の召し、召された状態」という宗教的意味に用いられてきた第一種用法のBerufが、そのまま、変則的でも例外的でもない宗教的意味を十全に保ったままで、完全に世俗的な職業/職業労働、しかもそれまでは宗教的栄光化とは無縁で、むしろ「懲罰としての苦役」というニュアンスさえ帯びていたponosにまで適用されるにいたった、ということである。そうして初めて、たとえ旧約外典の一節においてであれ、それ自体として完全に「使命としての職業」という語義をそなえた語Berufが誕生した、といえるのである。
なるほど、ここには、一種の「不整合」があり、問題が残されているようにも見える。ルターは、「突破口」となる『コリントT』7: 17-31中のklēsisを、真っ先にBerufに改訳してもよかったはずであるが、じっさいにはそうしなかった。また、『シラ』句の翻訳で「使命としての職業」という語義をそなえた語Berufを創り出したうえは、(ルター以降にルター派の翻訳者たちがじっさいにそうするように)ルター自身も、その後、『シラ』句との整合性において『コリントT』7: 17-31中のklēsisにもBerufを当ててもよかったと思われるが、なぜかそうはせず、最後までRufで通した。この二点は、固有の意味におけるルター研究においては、なんらかの価値観点から、カール・ホルのいう「ルターの流儀」[19]に解消すべきではなく、「不整合」として正面から問題とし、その理由の探索がなされてもよいであろう。しかし、この「倫理」論文は、固有の意味におけるルター研究ではなく、「資本主義の『精神』」ないしはその核心にある「職業義務観」という「集合態」的意味形象を研究対象とし、その宗教的背景を問い、やがては本論で、「世俗内禁欲」の救済道を打ち出した諸宗派の信仰内容との間に、いかなる「意味連関」があるかを究明しようとする、歴史・社会科学的研究である。したがって、「問題提起」章中の一節を割り当てたルター論では、ルターが救済道を世俗内に「転轍」し、「使命としての世俗的職業」概念とこの概念を表示する語Berufを創出した画期的意義と、「禁欲」を「わざ誇りWerkheiligkeit」として忌避し、「伝統主義」に傾いた限界とを、ともに確認すれば足りる。概念−語義の創出過程論でも、「使命としての職業」概念の創出が、偶然ではなく、聖書原文に由来するのでもなく、翻訳者の精神から、したがって宗教改革の必然的帰結として生まれたことを証明すれば足りる。創出過程に見られる用語法の外形上わずかな「不整合」に捕らわれてその詮索に深入りしたとすれば、それは、たんなる「些事拘泥」というよりもむしろ、研究の本筋からの無用な「逸脱」「道草」であり、「倫理」論文全体に貫徹されるべき「価値理念」「価値関係的パースペクティーフ」による制御の弛緩、論理的内容構成の毀損として、かえって「倫理」論文の減価をまねいたことであろう。
さて、以上のとおり、『シラ』句のergonとponosにBerufを当てたとき、「使命としての職業」概念を表示する語Beruf が創出されたのであるが、上記の論証のかぎりでは、それはなにか「両勧告がすでに実質上類似しているという理由から」、つまり、もっぱら両勧告の「客観的意味」における類似に「引きずられ」、解釈主体の関与ぬきにも招来された結果であるかのように思われよう。こうした解釈は、大塚訳、梶山訳/安藤編の両邦訳とも、「すでにschon」を「たんに」「ただたんに」と訳出し、意図してではなくとも、「類似」を活かす解釈者の主体性を貶価するかのようなバイアスをかけていることによっても、誘い出されやすいといえよう。しかし、こうした文言によって指し示される事態そのものを、多少とも想像力をはたらかせて思い浮かべ、よく考えてみよう。このばあい、解釈者はマルティン・ルターなのである。かれがなにか、「類似」に「引きずられ」、まるで「ことの弾みで」「魔が差した」かのようにponosにまでBerufを当て、没主体的に「使命としての職業」概念を創出してしまった、というのであろうか。かりにそうだとすると、「使命としての職業」概念の創出は、偶然の所産で、宗教改革の必然的産物とは見なしえないことになる。しかし、ルターともあろう者が、それほど「いい加減に」聖書を訳し、ヴェーバーもヴェーバーで、ルターの聖書翻訳をそうした「杜撰な」作業として「杜撰に」追認した、とでもいうのであろうか[20]。
原著者ヴェーバーは、ルターが両勧告の「類似」ゆえに無理なく、ponosにもBeruf を当て、「使命としての職業」概念を創出することができたのではあるが、それもけっして偶然ないし機械的な結果でなく、内面的/思想的必然性をそなえた主体的選択の帰結であると見ている。そして、すぐあとにつづく文章で、当の主体的契機を取り出して論じ、宗教改革の必然的産物であると同時に、ルター特有の伝統主義の帰結でもあることを立証するのである。したがって、問題の句に見える「すでにschon」とは、こうしたコンテクストのなかで、「つぎに述べる主体的契機を待つまでもなく、実質上の類似からしてもすでに」という意味に解されなければならない。
ここに、前述注2への参照指示が出てくる。ヴェーバーによれば、「その間(あるいはほぼ同時期の)1530年には、アウグスブルク信仰告白が、プロテスタントの教理を確定し、カトリックの――世俗内道徳を貶価し、修道院実践によって凌駕すべしと説く――教理に無効を宣していたが、そのさい『各人はそれぞれの»Beruf«に応じて』という言い回しが用いられていた[過去完了](前注[注2]を見よ)。[@]このこと[アウグスブルク信仰告白が(Rufでなく)Berufを用いていたこと]と[A]ちょうど1530年代の初葉、生活の隅々にもおよぶ、まったく個別的な神の摂理にたいするルターの信仰が、ますます鋭く精細に規定されるような形態をとるにいたったimmer schärfer präzisiert 結果、各人の置かれている[個別の]秩序を[したがって『身分』よりもさらに個別的な『職業』をも]神聖なものとして尊重するかれの捉え方が、本質的に強まってきたこと、それと同時に、[B]世俗の秩序を、神が不変と欲したまうた秩序として受け入れようとするルターの[伝統主義的]傾向がますます顕著になったこと、――これら[@AB]のことが、ここで[『シラ』11: 20, 21で]ルターの翻訳に現れているhier in Luthers Uebersetzung hervortreten[現在形]」(GAzRS, I, S. 68,
大塚訳、106-7ぺージ、梶山訳/安藤編、143-4ぺージ)。ところで、「アウグスブルク信仰告白」に論及している注2を参照すると、その第27条ではBerufにvocatioが当てられているが、「このvocatioは、ラテン語の伝来の用法では、まさしく神聖な生活、とくに修道院生活あるいは聖職者としての生活への神の召命/招聘という意味で[それだけに限定して]用いられていた。それが、ルターのばあいには、かの[修道院実践による世俗内道徳の凌駕を説くカトリックの教理を無効と宣言して、世俗内道徳をこそ重視する、「アウグスブルク信仰告白」に表明されたプロテスタントの]教理の圧力を受けて、いまや世俗内の『職業』労働が、そうした、神による召命/招聘の色調を帯びた[過去形]」(a. a. O.)のである。
このようにヴェーバーは、ルターにおいて「使命としての職業」概念を表示する語Berufが創始された主体的契機を、@宗教改革の事業がようやく信条を公布する段階にまで達したので、そこで登録された、(klēsisの通則的訳語として)宗教的意義に充満した語»Beruf«を継受し、まぎれもなくもっぱら世俗的な職業を表してきた語ergonとponosにあえて適用して、世俗的職業を「神による召命」とみなす思想をそれだけ強く打ち出し、明確な語義/語用法にまで貫徹して、世俗内道徳の重視にさらに拍車をかけようという宗教改革者ルターの決意、とともに、Aルターにおける摂理観の個別化、Bルターにおける伝統主義という密接に関連している二契機にも求めている。ところで、このうちの契機@については、前注2への参照指示にしたがい、その趣旨を汲み出すことによって、説明がついている。しかし、残るAとBについては、この二契機が『シラ』11: 20, 21におけるルターの訳語選定を規定していると、たんに陳述している――あるいは、せいぜい仮説を提出している――だけで、まだ論証の体をなしてはいない。そこでヴェーバーは、こういうさいのいわば常套手段として、類例との対比を試みる。その論理展開は、絶妙である。
かりに、1530年代の初葉に、Aルターの摂理観がさらに個別化されなかったとすれば、「神の召命」は「身分」どまりで、「職業労働」にまではおよばなかったであろうし、B伝統主義の傾向が強まらなければ、「職業に堅くとどまれemmenō=abide by」という原文表記にBerufを当てることもなかったであろう。ところが、じっさいにはそうではなくて、1530年代の初葉に、このAとBの契機が緊密に連携しながら進展し、じっさい1533年には『シラ』の訳語選定を規定した。その事実は、つぎの類例との対比によって立証される。すなわち、ヴェーバーが、上記の引用にすぐつづけていうには、「それというのも、ルターは、『シラ』のponosとergonを、……いまやBerufと訳すのであるが、その数年前になおeinige Jahre vorher noch
『箴言』22: 29のヘブライ語melā’khāを、これが『シラ』のギリシャ語訳テクストにみえるergonの原語で、ドイツ語のBerufや北欧語のkald, kallelseとまったく同様、とくに聖職への『召命Beruf』に由来する語であったにもかかわらず、[Beruf とは訳さず]他の箇所(『創世記』39: 11[21])とまったく同様に、Geschäftと訳していたからである(『七十人訳』ではergon、『公認ラテン語訳聖書ヴルガータ』ではopus、英訳聖書ではbusinessと訳され、北欧語その他、手元にある翻訳もすべて、これと一致している)」(GAzRS, I, S. 68,
大塚訳、107ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。ここで引き合いに出されている『箴言』22: 29とは、例の「汝、そのわざBerufに巧みなる人をみるか、かかる人は王のまえに立たん」というフランクリンのモットーであり、「かれの倫理のアルファにしてオメガ」とされた句である。ところが、この句は、(フランクリン父子の時代のアメリカでは)同じBerufあるいはcallingが当てられるようになっていたとしても、『シラ』の類例とは異なり、当の「わざ」を、A神の摂理の個別的な顕現とも、したがってBその枠内に堅くとどまるべき伝統的秩序の一環/一分肢とも、捉えてはいない。むしろ、「わざの巧みさ」という人為に力点を置いている。ということはつまり、(ルターが『シラ』の基調と見た)「神信頼」の、そこ(『箴言』句)における秘かな欠落を顕し、それだけ人為に頼って(ルターが原則的にしりぞける)「わざ誇りWerkheiligkeit」にも通じる、危うい傾きを孕んでいる、ということであろう。そこでルターは、それが旧約正典の一句で、ギリシャ語『七十人訳』の原文では(『シラ』のコンテクストではBerufを当てた)ergonで、ヘブライ語の原語も、語根 l’kh(遣わす)に由来し、かつては「遣わされた使命」の意味を帯びていて、Beruf と訳しやすいmelā’khāであったにもかかわらず、あえてBerufとは訳さずに、そっけなくGeschäftと訳した。『シラ』句と『箴言』句とが同義/等価で、ただ「時間的前後関係」が問題であり、数年まえにはまだ『箴言』22: 29のmelā’khāをGeschäftと訳していたルターが、数年後にはA摂理観の個別化とB伝統主義化の結果、当のmelā’khāにも、原文どおりBerufを当てるようになった、というのではないし、そんなことがルターに起きようはずもない。原著者ヴェーバーがいわんとするのは、A摂理観の個別化とB伝統主義化の結果、『箴言』22: 29のmelā’khāには、ますますBerufは当てられず、Geschäftで通すほかなくなる一方、『シラ』11: 20, 21のergon とponosには、原文/原語からは無理でも、まさに「翻訳者の精神」においてBerufを当てたという事実、これである。時間的に至近の類例・対照例を引き合いに出すことによって、じじつ起きた「『シラ』11: 20, 21におけるergon とponos とのBeruf訳」という結果を、A、Bとして顕れたルターの思想変化という主体的契機に「意味・因果帰属」している。繰り返していえば、ルターが、時間的に近接した「数年まえにはまだ」、原文/原語からはBerufを当てやすい『箴言』句にはBerufを当てなかったのに、数年後には、Berufを当てにくい『シラ』句に、じっさいにはBerufを当てたのはなぜかといえば、それは、ルターの、A個々人の具体的境遇(したがって職業への編入)にまで神の摂理を認める傾向がつのり、それと同時に、Bそうした現世の秩序を神の摂理とみて、各人はいったん召し出された職業に堅くとどまるべきである、とする伝統主義が強まり、こうした思想/思想変化が訳語の選択に表明された結果である、というのである。
ここで、「ルターの職業観」節第一段落の本文と三注に述べられている内容を要約すれば、こうもいえよう。すなわち、今日でもなにほどか「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ言葉として頻繁に用いられる語Berufは、(ここでは、この語を「トポス」として、読者とともにその歴史的創始点に遡行し、「近代市民的職業エートス」の歴史的一与件の誕生に立ち会おうと探究を試みたのであるが、それは)偶然でも、聖書原文の直訳でもなく、宗教改革における翻訳者たち、とりわけマルティン・ルターの精神において、聖書の意訳によって歴史的に創造された。詳言すれば、一方では、『コリントT』7: 17-31のコンテクストにおけるklēsis が、この語の用例としては変則的ながら、すでに「神の秩序としての身分」という意味に解され、1530年の「アウグスブルク信仰告白」ではその意味で»Beruf«と訳され、公式に登録されていた、という事態を客観的与件とし、他方では、翻訳者のひとりルターにおけるA各人の「身分」のみか「職業」への編入をも神の摂理と見る、摂理観の個別−精緻化とB伝統主義化という思想変化を主体的契機として――そのように客観的与件と主体的契機とがあいまって――1533年の『シラ』翻訳のさい、(世俗的職業/職業労働しか意味しなかった)ergon とponosに、(「神の召し」という宗教的意味に用いられ、特例としても「聖職への招聘」に適用を制限されていた)Berufが当てられることにより、まさにそのとき、創始された。それ以降、ルターのその意訳が、以後の翻訳者たちによって受け入れられ、普及して――ばあいによっては、ルター本人をこえ、『コリントT』7: 20のklēsisや『箴言』22: 29のmelā’khāにまでBerufないしはBeruf相当語が適用されて――今日にいたっている。
さて、語BerufならびにBeruf相当語の、以後の歴史的運命/普及に一瞥を投ずるとすれば、ここでも最小限つぎのことは指摘しておいてよいであろう。ルターによって創造された「今日の語義における語Berufは、さしあたりはzunächstもっぱらルター派内にかぎられていた[過去形]」(GAzRS, I, S. 68,
大塚訳、107ぺージ、梶山訳/安藤編、144ぺージ)。ルターによって敷設された「世俗内救済」の「軌道」を「伝統主義」から「禁欲的合理主義」に「転轍」した「禁欲的プロテスタンティズム」諸派、とりわけ嚆矢をなす「カルヴァン派は、旧約外典を正典外unkanonischと考えていた[過去形]」(a. a. O.)。したがって、そもそも『シラ』そのものを重視せず、そのうちの二語の翻訳など、ことさら問題にしようともしなかったであろう[22]。その「カルヴァン派が、ようやくerstルターの職業概念を受け入れ、重視するようになって現在にいたる[現在完了]のは、『確証』問題への関心が前面に出てくる、あの発展の結果であって、当初のerst(ロマン語系の)翻訳では、ルターの職業概念を表示するのに使える語がなく、かつまた、すでにステロ化されている国語の語彙のなかに、そうした語を創り出し、流布させ、慣用語として定着させるだけの勢力もなかった[過去形]」(GAzRS, I,
S. 68, 大塚訳、107-8ぺージ、梶山訳/安藤編、144-5ぺージ)。
ここで「『確証』問題への関心」とは、被造物から深淵によって隔てられた「予定説の神」をまえに、「この自分は、はたして選ばれているのか、それとも棄てられているのか、自分が選ばれていることを、なにをよすがに認識し、確信できるか」というカルヴァン派平信徒大衆の深刻な苦悶の謂いである。自分が選ばれていると確信していたジャン・カルヴァン(1504-64)自身には、「確証」などそもそも問題とはならず、かれにはむしろ、そうした問いを発すること自体、信仰が足りない証左で、非難されるべきことであった。しかしその問いは、平信徒大衆にとっては決定的で、各人に切実に問われた。牧会の実践では、この問いに答えて、「『神の栄光』を顕す『神の道具』として職業労働に没頭し、不安をしりぞけて『選びの確信』に達し、そうして生涯『恩恵の地位』を維持すべし」と説かれ、ここから持続的な「禁欲」が駆動された。ところが、そうした発展は、早くとも当の「予定説」と「予定説の神」が『ウェストミンスター信仰告白』(1647)に表白されるころからであり、ルターによる語Beruf創始の直接の影響には帰せられない。カルヴァン派を初めとする「禁欲的プロテスタンティズム」における「神観−救済追求−禁欲的合理主義の意味連関」は、まさにこの「倫理」論文の主要テーマとして、このあと本論(第二章)で論じられる。したがって、ルターの職業概念と語Berufの創始に焦点を絞り、課題を限定しているこの注3では、カルヴァン派ほか「禁欲的プロテスタンティズム」諸宗派の「職業観」「職業思想」はもとより、それぞれの「職業概念」/語義論にさえ殊更立ち入る必要はない。かりに「価値関係的パースペクティーフ」による制御が弛緩し、ここでそうした論点まで取り上げて「道草」を食ったとしたら、論脈逸脱も甚だしく、内容構成の論理的整合性を損ね、締まりのない論文に堕したことであろう。
それに、先にも注1末尾で触れられていたとおり、16世紀におけるロマン語系諸国のカルヴァン派は、それぞれの「言語ゲマインシャフト」における「少数派」で、各言語そのものもすでにステロ化されていたから、言語改革という一点にかぎっては、ルターに比肩されるほどの語義創造/語彙改革を達成することはできなかった。ルターによる語Beruf創始をテーマとするこの注3ではあるが、末尾のこの第六段落にかぎっては、ルター派の範囲をこえる語BerufないしBeruf相当語の波及に一瞥を投ずることになるので、波及先の宗派の置かれている多様な歴史的/社会的諸条件を考慮しつつ慎重に取り扱われなければならない。では、ルター/ルター派のドイツとも、ロマン語系諸国とも、明らかに条件を異にするイギリスを初め、英語圏のばあいはどうであろうか。イギリスは、17世紀以降、プロテスタント諸宗派の大衆宗教性が入り乱れて覇を競う主戦場ともなるので、そうした歴史的展開との連続性を、日常語の語彙/語義について確認しておくためにも、ここでとくに、ルターによる語Beruf創造の直後における直接の影響にかぎって(それ以降における語義のみでなく思想の間接の影響については、上記の理由で本論で主題化することにして)通観しておくとしよう。
[6]ルター以後16世紀におけるBeruf相当語の波及
そのまえに、ドイツに一瞥を投ずると、「Berufの概念は、その後すでに16世紀のうちにも、教会以外の文献では今日の意味で用いられるようになっている」(GAzRS, I, S. 68,
大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。ルター以前には、klēsisが、たとえばハイデルベルク古文書館にある1462/66、1485年の聖書ではBerufung、1537年の(厳密にはルター以前ではないが)、エック訳インゴルシュタット版ではRufと訳されているが、それ以降は、カトリックの翻訳も、たいていは直截にルターにしたがっている[23]。
ここでいよいよ、比較の範囲をルター派/ドイツ以外に広げ、どの宗派にも一様に重視された新約正典の『コリントT』7: 20を定点観測の指標に据えて、イギリスにおける訳語の波及状況を概観すると[24]、まず注目すべきことに、1382年のウィクリフ訳[25]が、いちはやくこの箇所のklēsisをclepingと訳している。このclepingは、後にcallingにとって代わられる、宗教改革時代の用語法に一致する語で、ロラード派(ウィクリフ派)の倫理の特徴を示している。
それに反してdagegen(ということはつまり、『コリントT』7: 20の klēsisをもルター本人をこえてBerufと訳すルター派的な用語法を規準とすれば、ロラード派からの一定の後退を意味するが)1534年のティンダル訳[26]は、このklēsisを(ルターと同じく)「身分」と解し、in the same
state, wherein he was calledと訳した。(亡命カルヴァン派信徒のフイッティンガムによる)1557年のジュネーヴ版[27]die Geneva
von 1557でも同様である。
このジュネーヴ版以前に、1539年の公認クランマー訳(「大聖書」)[28]が、このstateをcallingに置き換え、callingをtradeの意味で用いる(つまりイギリスにおけるBeruf相当語の)嚆矢をなした。
ところが、その後に出た(亡命カトリック教徒による)1582年のランス(ドゥエ)版新約聖書[29]と、エリザベスT世時代(在位1558〜1603)の「宮廷用[30]イギリス国教会聖書die höfischen anglikanischen Bibeln[複数]」(GAzRS, I, S. 69,
大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)は、クランマー訳のcallingをふたたび、『ヴルガータ』に倣ってvocation に戻している。
さて(原著者ヴェーバーの論旨をわずかながら筆者が補足して敷衍すれば)、16世紀イギリスの聖書英訳事業は、ウィクリフ/ロラード派の伝統を引き継ぐ「下からの」宗教改革の延長線上に位置するとしても、他面、ローマ教皇庁の掣肘から脱して専制君主としての国内支配を固めようとし、一面では(教皇庁公認『ヴルガータ』の権威に対抗する)聖書の自国語訳を奨励し、ばあいによってはイニシアティヴをとりながらも、平信徒大衆の「自由検討」にもとづく反権威主義的自立と反乱を恐れ、ときには教皇庁に身を寄せるテューダ朝の国王たち――政略結婚とからんだ離婚問題で教皇と争い、修道院を解散し、イギリス国教会を樹立したが、ルターやカルヴァンの教理は否認し、ティンダルを処刑したヘンリ[世(1509〜47)、ひきつづき修道院解散を押し進めると同時に、教理と儀礼の面でもプロテスタント色を強めたエドワードY世(1547〜53)、カトリックに復帰してプロテスタントに血の弾圧を加えたメアリT世(1553〜58)、国教会派プロテスタントながらカトリック的要素も温存し、折衷的に独自色を出そうとしたエリザベスT世――による「上からの」宗教政策に、肯定的にせよ否定的にせよ、顕著に規定されざるをえなかった。そうした時代相を映し出し、上述で瞥見したような、相応の一進一退/紆余曲折をへながらも、聖書英訳の事業総体は進展し、それとともに、callingをtradeの意味に用いる「ピューリタン的な用語法」(Beruf相当語)も根を下ろしていった。このうち、「クランマーの聖書翻訳 die Cranmersche Bibelübersetzung」(GAzRS, I, S. 69,
大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)が当該用法の端緒をなすことは、(「倫理」論文執筆当時、編集途上にあって刊行されたばかりの)OED callingの項目で、碩学マレー博士が適正に指摘している。すでに16世紀中葉にはcallingがBeruf相当語として使われ、1588年にはunlawfull calling、1603年にはgreater callingといった用例が見られる。そして(一点だけ、16世紀の国教会の要請を引き継ぎ実現する形で17世紀に食い込んでいる一大編纂について補足すれば)、ステュアート朝初代のジェイムズT世(1603〜1625)の肝入りで開始され、六班51人の聖書学者が、16世紀の諸訳を丹念に参照し、原文とも照合して採長補短のうえ集大成したといわれる1611年「(キング・ジェイムズ)欽定訳」[31]では、『コリントT』7: 20にin the same callinge, wherin he was calledという用語法が採用され、16世紀の紆余曲折がここに収束をみている。
小括
このように通観してみると、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Berufを「トポス」に据え、ルターにおける語義の創始過程と直後の波及に遡行して捉え返してくる原著者ヴェーバーの論述は、「意味探し」と「素材探し」との統一として、いかにもかれらしい緊密な論理整合性と的確な資料処理をともない、読者を念頭に置いて一歩一歩進められている。「倫理」論文のこの部分は、草稿ではおそらく、本文と注との区別なく一挙に書き下ろされ、全体の構成を顧慮して、詳細な論証部分が注に送り込まれたにちがいない。ひとたび粒々辛苦の読解が達成されてみると、読者は必ずや、論旨の明晰さに爽快感さえ覚えられるであろう。
筆者は、別稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか」(本コーナーに掲載)で、「羽入事件」を「藤村事件」という類例と対比し、そこから抜き出した前稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」と本稿とにより、(遺跡発掘にたとえれば)「『倫理』遺構」における遺物群の「配置構成」を、できるかぎり遺跡自体のたたずまいに迫って復元した。そこでつぎには、稿を改め、羽入辰郎がこの「遺構」から、ⓐどの遺物をどのように抜き取って、ⓑ自分が外から持ち込んだ羽入流「配置構成図」に移し入れ、並べ替え、ⓒいかなる「意味変換」を生じさせ、「ヴェーバー詐欺師説」を「捏造」しているか、――いわばその「犯跡」を、ひとつひとつ克明にたどり、浮き彫りにしていかなければならない。(2004年6月26日脱稿、注17と21にかぎり、2004年7月2日改訂)
[1] 本コーナーへの丸山尚士の寄稿を参照。「倫理」論文の冒頭、第一章第一節「宗派と社会層」も、近代的商工業の資本所有/企業経営/上層熟練労働に携わる社会層への帰属率にかけては、カトリック教徒よりもプロテスタントのほうが優勢で、この点が他ならぬカトリック系の紙誌でも問題とされている、という同時代の統計と論調を「トポス」として説き起こされている。
[2] 日本人読者のばあい、初見では「時は金なり」「信用は金なり」の趣旨を「額面どおりに」受け取るとしても、二回目に、たとえばつぎのような箇所の下線部分に注意して読むと、印象が変わるはずである。「約束の期限までに几帳面に支払うことが評判になっている者は……」、「朝の五時か夜の八時に君の槌の音が債権者の耳に聞こえるようなら、……君が債務を忘れていない印となり、また、君が注意深いだけでなく正直な男であると人に見させ、君の信用は増すだろう」、「君の思慮深さと正直が人に知られているとすれば……」。つまり、「自分が事実正直か」(「使用価値」視点)よりも、「人に正直と見られ」(「交換価値」視点)て「信用」され、借入金の運用で「貨幣」を増やせるかどうか、がけっきょくのところ重要なのだと説く、「『貨幣増殖』目当ての『偽善』勧告」と読めないこともない。ドイツ人読者は、初回にもこうした箇所で「アメリカ嫌い」を触発されるであろう。キュルンベルガーのその狙いを、ヴェーバーもひとまず受け入れて、接点・「トポス」をつくり、そこから「事態ははたして、それほど単純か」と問いかけ、読者と対話しつつ論を進めていくのである。
[3] 実存する個人を起点に据えて「自然」と感得されるところから「社会的諸関係」にかんする(社会学的)概念構成を進めていくと、「家ゲマインシャフト」「氏族ゲマインシャフト」につぐ血縁/擬制血縁的なゲマインシャフトとして「部族Stamm」「民族Volk」といった概念が想到されるであろう。しかしヴェーバーは、それらの「実体化(物象化的錯視)」は避け、「種族ethnische Gruppe」を「@外面的に目立つ容姿か、A習俗(生活習慣)かのいずれか、あるいは両方、またはB植民や移住の記憶にもとづいて、『血統の共有』にかんする主観的信仰を、ゲマインシャフト(社会)関係の拡張にとって重要な程度に抱き、なおかつ『氏族ゲマインシャフト』はなさない人間群(統計的集団)」と定義する。したがって、そうした主観的な「種族的共属性信仰」が共有されていても、現実に「部族」「民族」などの「種族ゲマインシャフト」が形成されるとはかぎらず、むしろそのつど、こうした類型概念により、まさしく社会学的な問題として捉え返されるのである(拙著『ヴェーバー学のすすめ』、第二章注45、140-1ぺージ、参照)。
[4] 「教団」(宗教団体)の規模が大きくなると、「平信徒大衆」と「達人」との分化が生じざるをえないが、そのうえ大量の複雑な教理や信条をもつようになると、そうした教理/信条への平信徒のかかわり方一般も、(キリスト教神学の用語で代表させると)「黙示的信仰fides
implicita」と「顕示的信仰」とに分かれ、双方を両極とするスペクトルのどこかに落ち着かざるをえない。前者は、平信徒ひとりひとりが、自分個人では教理や信条にはかかわらず、むしろそうした問題を専門とする「聖職者」(スタッフ)の指示には無条件にしたがう総体的な態度表明の謂いである。それにたいして後者は、そうした「信仰」のあり方をいさぎよしとせず、平信徒個々人がみずから教理や信条を知り、自由に検討し、議論し、主観的に「真と確信し」、その旨表白して初めて信仰の域に達すると認める、宗教上の「個人主義」「主知主義」を意味する。Cf. Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, 5. Aufl., 1980, Tübingen, S. 342-3.
[5] 聖職者に独占された「公認ラテン語訳vulgata」ではなく。
[6] 「ひとまず」というのは、観点とパースペクティーフを変えれば、ルターの職業概念そのものを問題とし、その特性について、たとえば「ドイツ神秘主義」、あるいはボヘミアのフスを介してウィクリフに遡行して因果帰属を試みる、といった研究も、成り立つであろうからである。
[7]それまで「ヴルガータ(ローマ・カトリック教会公認のヒエロニムス訳聖書)」に用いられた唯一の神聖な言語であるラテン語にたいする通俗語、したがってそれぞれの母国語。
[8]説教集など
[9]第一章第三節の表題は、Luthers Berufskonzeption. Aufgabe der Untersuchungと記されている。主題と副題とをコロンないしダッシュで結ぶのではなく、「ルターの職業観」という主題を終止符でいったん閉じ、そのあとに「研究の課題」と記されている。内容と照合すれば、この「副題」は、「ルターの職業観」が即(この論文全体の)「研究の課題」をなすという意味ではなく、この節で、ルターの職業観の限界(伝統主義への「逸脱」)が確認され、その限界をこえる「研究の課題」がいわば絞り出され、本論に引き渡される、という趣旨を伝えている、といえよう。
[10] もとより、観点を変えれば、別の取り扱いも可能である。上注6参照。
[11] 「言語ゲマインシャフト」とは、「制定秩序gesatzte Ordnung」があって構成員が準拠し合える「ゲゼルシャフト関係」とは異なり、「制定秩序」はないのに、各構成員が他の構成員から寄せられる期待を「妥当gültig」と見なして行為し、それゆえあたかも「制定秩序」があるかのようにゲマインシャフト行為が経過する範囲のゲマインシャフト、すなわち「諒解ゲマインシャフトEinverständnisgemeinschaft」の一典型例である。Cf. Weber, Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 453-4.
[12] ルターがある聖典のある箇所で新しい語義のBeruf を創造したからといって、それが、歴史的/社会的諸条件のいかんにかかわりなく、同一の箇所から同一の回路をとおって同一の様式で波及するわけはない。ルターの「言語創造」とその影響を、歴史的/社会的条件から切り離して「言霊創造とその伝播」に祀り上げ、言霊/呪力崇拝に耽ってはならない。学問的議論にそういう呪術的仮定を持ち込む論者は、まずなによりもヴェーバーの歴史・社会科学に学んで、そうした「呪縛から解放entzaubern」される必要があろう。
[13] 拙著、第二章注21、129-30ぺージ、参照。
[14] この点は、両勧告の前後のコンテクストを、とくになにが対照例として非難されているか、に注目して比較してみると、いっそう鮮明になろう。『詩篇』37: 1-7には「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。……沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな」とある。他方、『シラ』11: 21には、「罪人の仕事を見て訝るな。主を信頼して自己の職務に徹せよ。貧者を速やかに、急に富ませることは主にとっては易しいことである」と説かれている。
[15] 著者ヴェーバーは、上記『エフェソ』4章にかんするタウラーの説教に、同じ注3のなかで論及したさい、また、この箇所における『コリントT』7: 17-31からの引用の直後にも、『エアランゲン版ルター著作集』51巻、51ぺージ(『コリントT』7: 20)の参照を指示している。だから、その前後の7: 17-31を、同じ「原典」から引用しようと思えば難なくできたはずである。
[16] 21節は、近代の解釈が分かれる箇所である。拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章注15(128-9ぺージ)参照。
[17]この引用のあと、「枢密顧問官メルクスがいうところでは、これは明白なHebraismusである」(GAzRS,
I, S. 67, 大塚訳、105ぺージ、梶山訳/安藤編、142ぺージ)と記され、つづけて『ヴルガータ』からの引用
in qua vocatione vocatus est がある。原文作者のパウロは、ヘレニズム世界の教養人で、書簡の文体も、流暢ながら整った文章語であるという(田川建三『書物としての新約聖書』、1997、勁草書房[以下、田川書]、340-5ぺージ)。とすると、Hebraismusとは、そういうギリシャ語文中に現れた「ヘブライ語風の言い回し(語法)」という意味であろう(田川書、332ぺージ)。ちなみに、『コリントT』7:
20の原文についてみると、hē
は関係代名詞hos
の女性単数与格、eklēthēは動詞kaleō(=call)の三人称単数アオリストT(単純過去)直接法受動相で、文法上は問題なくin
the calling with (in) which one was called と訳出されよう。与格を「手段の与格」と解すると「人が召された当の召し」、(普通名詞については稀とのことであるが)「場所の与格」と取ると「召されたところ、地位、身分」という意味が派生してくるのでもあろうか。この箇所がどういう意味で「ヘブライ語風の言い回し」なのかは、筆者には判断しかねる。専門家のご教示をえられれば幸いである。なお、『ヴルガータ』の訳文についてみると、quaが関係代名詞quiの女性単数奪格、vocatus
estは動詞vocō(=summon)の三人称単数直接法完了受動相で、やはり文法上は無理なくin
the summons with which one was summoned と訳出されよう。
[18] ただし、すでに1523年の『コリントT』7章の釈義でも、同一構文のklēsisにRufでなくBerufを当てている箇所もある(拙著、78ぺージ、参照)。つまり、「初期」に、聖典間のみでなく、聖典本文と釈義との間にも、「混用Schwanken」が認められる。
[19] 拙著、第二章、注33、131ぺージ、参照。
[20] 人あって、どれほどそうした「杜撰さ」をヴェーバーに、ヴェーバーを介してルターに、押しつけたいと願おうとも、それほど杜撰なことが、じっさいルターに、またヴェーバーに起きるはずがあろうか。そうしたルター像ないしヴェーバー像はむしろ、ルターはともかくヴェーバーをなんとしても打倒したいという解釈者の抽象的情熱から、大塚/梶山の不適訳に誘発されて脳裏に宿り、居すわってしまった幻像ではあるまいか。それはかえって、解釈者自身の軽率さと文献読解力の欠損を表し、そうした幻像を「彼我混濁」ゆえ、ほかならぬヴェーバーに投射/投影した所産と解するほかはなかろう。
[21] この箇所は、エジプトに連れてこられたヨセフが、主人ポテファルの妻に誘惑される直前の記事で、「ある日、ヨセフが仕事をしようとして家に入ると、……」(新共同訳)とある。ポテファルは、ファラオに仕える官吏だったから、この「仕事」とは、エジプト型「賦役/公役官僚制」に編入された「職務」で、それゆえ語melā’khāが当てられていたのであろう。というのも、melā’khāは、l’kh(遣わす)という語根から派生した語で、旧約聖書中に散見される数多の用例に照らして、「エジプト型、およびエジプトに倣ってつくられたソロモン型賦役国家にみられる賦役−公役官僚制Fron- und Leiturgie-Bürokratieの思想世界に由来し」、元来は「使命としての役務」という意味合いを帯びていた。ところが、(ヴェーバーが、ハイデルベルク大学の同僚で神学者/オリエンタリストのメルクスから聞いた話として伝えるところでは)「そうした語根の意味は、すでに古代に完全に失われ、語melā’khāは、いかなる『労働』にも用いられるようになった。そのように一定の[宗教的]色彩を失なった点、また、最初には祭司職への招聘に用いられた点でも、語melā’khāの運命は、ドイツ語のBerufと同様であった」(GAzRS, I, S. 63, 大塚訳、96-7ぺージ、梶山訳/安藤編、135ぺージ)という。
[22] 歴史の多様性に豊かな感受性をそなえ、対象の個性を損なわない歴史・社会科学的認識の方法を編み出して自覚的に駆使し、このばあいについていえば当然外典の取り扱いにおける宗派ごとの差異にも通じていたにちがいないヴェーバーは、なにもルターが『シラ』11: 20, 21で今日の語義におけるBeruf を創始したからといって、歴史/社会的条件を異にする他の宗派もことごとく同等に『シラ』を重視し、それぞれの自国語訳『シラ』の11: 20, 21 からBeruf 相当語を採用し始め、(他の聖典を含む)他の諸箇所にも普及させいく、などと決めてかかるわけがない。「唯『シラ』回路説」とも名付くべき、そうした生硬な想定は、歴史を思わずに字面をなで回す没意味文献学徒の妄想の産物にすぎまい。
[23] ということは、文脈から見て、ルターの(たんに『コリントT』7: 20の用例ではなく)職業思想にしたがい、ルター派と同様、当該箇所もBerufと訳したということであろう。
[24] この項目の執筆にあたっては、本コーナーに掲載の丸山尚士「『羽入氏論考』第1章『”calling”概念をめぐる資料操作』の批判的検証」を参照した。かれが調べてくれた文献や資料に、筆者も(同じく非専門家ながら)当たって再検証しているが、筆者が独力でそれらに行き着くには、多大な時間と労力を要し、容易なことではなかったろう。次稿「羽入による意味変換操作」の関連項目執筆についても、同じことがいえる。ここに記して、丸山のザッハリヒな教示に感謝する。
[25] 正確には、ウィクリフの弟子ニコラス・ヘリフォードによる『ヴルガータ』からの重訳(ベンソン・ボブリック著、永田竹司監修、千葉喜久枝/大泉尚子訳『聖書英訳物語』、2003、柏書房[以下、ボブリック著]、38-9, 251ぺージ、田川建三『書物としての新約聖書』、1997、勁草書房[田川書]、546-7ぺージ、参照)。
[26] ウィリアム・ティンダル(1495〜1536)は、1524年に大陸に亡命してハンブルクに到着し、ヴィッテンベルクにルターとメランヒトンを訪ね、翌年にはギリシャ語(エラスムス版)新約聖書の英訳を終えている。この新訳は、当初ケルンで印刷されようとしたが、妨害にあい、ヴォルムスで印刷され、1526年にはイングランドに持ち込まれた。「1534年のティンダル訳」とは、この年に出た新約聖書の改訂第二版を指していったものであろう(デイヴィド・ダニエル著、田川建三訳『ウィリアム・ティンダル――ある聖書翻訳者の生涯』、2001、勁草書房、531-59ぺージ、田川書、548ぺージ、ボブリック書、93、94ぺージ)。
[27] 当時ジュネーヴでは、カルヴァンとテオドール・ド・ベーズ(ベザ)を中心として、ピエール・ロベール・オリヴェタンの仏訳(1535年「ヌシャテル聖書」)を改訂する作業が進められ、1588年には仏語訳のジュネーヴ聖書が完成している。この「仏語訳のジュネーヴ聖書」と区別される「英語訳のジュネーヴ聖書は、まず新約聖書の部分が1557年に完成した。新約聖書の部分の翻訳の中心だったのは、William Whittinghamだったろう、と言われている。しかしもちろん彼一人の仕事ではなく、多人数の共同の作業であった。……ついで1560年に、もう女王メアリーの時代は終り、イギリスは再び国教会にもどっているのだが、彼らはまだジュネーヴに居て、旧新約聖書の全体をあわせて発行している。フウィッティンガムはその直後にイギリスに帰国した。(なお厳密には、ジュネーヴ聖書というと1560年の旧新約全書を指す。1557年のものは、ジュネーヴ新約聖書などと呼ばれている。)……ジュネーヴ聖書というのはもちろん後世につけられたあだ名であって、この聖書そのものにそう書いてあるわけではない。発行場所としてジュネーヴと記載されているだけである。」(田川書、557ぺージ)なお、この「英語訳のジュネーヴ聖書」であるが、各文書の前に簡単な解説が付けられ、詳細な欄外注が施され、章のみか節にも今日流の番号が振られ、初めてラテン文字で印刷されるなど、非常に読みやすく、内容上も正確で、他のどの英訳聖書よりも優れているとして広く普及し、1560年から「欽定訳」が出る1611年までの約50年間に(1539年「大聖書」の7版、1968年「司教たちの聖書」の22版に比して、なんと)120版を重ね、その訳文は、後代の訳とりわけ「欽定訳」にも多く取り入れられているという(田川書、556-60ぺージ、ボブリック書、139、144、175、209、235ぺージ、参照)。
[28]この版の成立事情は、やや錯綜している。1534年、ヘンリ[世は、ローマ教皇庁と絶縁してイギリス国教会を設立するが、そのさい新王妃アン・ブリンに唆され、腹心の大司教トマス・クランマー(1489〜1556)の提言をいれ、全教会に英語訳聖書を備えつける方針を採用した。この方針にもとづき、国教会公認英語訳の作成を命じられたのが、まずはマイルズ・カヴァーデイル(1488〜1569)である。かれは、ハンブルクでティンダルと、ジュネーヴでフイッティンガムと接触していたが、みずからはギリシャ語もヘブライ語も読めなかったため、急遽ティンダル訳を底本とし、旧約中ティンダルが訳し残した部分は「ドイツ語とラテン語から英語に訳し」て補うほかはなかった。しかし、そのようにして、ともかくも旧新約聖書全体の英訳を初めてなしとげ、翌1535年「カヴァーデイル聖書」として発行したのである。ところが、ティンダルから旧約の一部未発表稿を託されていた友人ジョン・ロジャーズが、カヴァーデイルの向こうを張り、ティンダル訳を全面的に復元し、ティンダルの未訳部分はカヴァーデイル訳を取り込んで、1537年「(偽名)トマス・マシュー訳聖書」として発行する。となると、「勅令によって公認された」英訳聖書が二種類出回ること自体が不都合なうえ、双方ともヘブライ語、ギリシャ語原典からの本格的な翻訳ではなく、ティンダル訳他の寄せ木細工にすぎず、後者ではプロテスタント色濃厚な注が物議をかもしもしたので、この状態に王もクランマーも満足しなかった。全教会に備えつけて国教会の総意を結集しうる「第三の」統一公認英訳聖書を、原典から訳し直して編纂する必要に迫られたのである。宮廷筋と国教会当局のこの要請に応える大事業が、1611年に完成する「キング・ジェイムズ欽定訳」である。ところが、当局としてはそれまで待つわけにもいかず、急場しのぎに、またしてもカヴァーデイルに命じて「マシュー訳」の注を取り除くなど、再改訂させ、他方ではフランス最新鋭の印刷機を植字工ごと買い上げて豪華な装丁を施したのが、1539年の版組大型「大聖書Great Bible」である。その後、「英訳ジュネーヴ聖書」(1557、1560)の挑戦を受けて、同じ要請を「大聖書」の改訂という形で実現しようとし、やはり挑戦に対応しきれなかったのが、1568年の「司教(英国教会では主教)たちの聖書 Bishops’ Bible」である。(田川書、551-5, 560-1、ボブリック書、109-28、144-7、参照)
[29] エリザベスT世の治世には、カトリック教徒が北フランスに亡命し、民衆への影響力喪失は独自の英訳聖書をもたなかったためと反省し、『ヴルガータ』からの英訳をドゥエで始めた。新約は1582年にランスで完成され、刊行されたが、旧約は遅れて1610年に完了し、ドゥエで出版される。(田川書、561-2ぺージ、ボブリック書、149-55、参照)
[30]「宮廷用 höfisch」と明記されている点に注意。つまりそれらは、公刊はされていない「宮廷用私家版」聖書の類[複数]で、教会史/聖書翻訳史関係の資料や叙述からは漏れていても不思議はない。それを、著者ヴェーバーは、王朝史/宮廷史を専門とする同僚サイドから聞いたか、みずから調べたかして、知ったのではあるまいか。独自色を出したがるエリザベスT世が、その類の聖書を数種つくらせて宮廷で使ってみていたというのは、ありえないことではない。そうした企てが、じつは、ヘンリ[世時代のクランマー訳「大聖書」でもエリザベスT世時代の「司教たちの聖書」でも充足されなかった、本格的な英国教会公認統一聖書への要請と、次期ジェイムズT世による大がかりな「欽定訳」事業の実施とを結ぶ線上で、宮廷なりの模索を表していたとはいえまいか。
[31] ボブリック書、165-217、252-4ぺージ、参照。とはいえ、ティンダル訳、ジュネーヴ聖書、欽定訳の三者を並べて比較してみると、「欽定訳はほとんどジュネーヴ聖書の盗作といってよいくらい」であり、このジュネーヴ訳がティンダル訳を継承している点を考慮に入れれば、「結果において欽定訳は、途中にジュネーヴ聖書を介在させているものの、ティンダルを国教会向けに改竄したものというにすぎない」ともいわれる(田川書、559-60ぺージ)。